ダメ社会人のダメじゃないかもしれない毎日

日々の楽しいことだったりいろんなことを記事にするよ!!

洋画の邦題・広告問題を考えてたらとんでもない事に気がついてしまったかもしれない。

どうもどうも。先日、アカデミー賞が発表されましたね。やっぱり『ラ・ラ・ランド』強かったですね。『ズートピア』も受賞しましたっけそういえば。まだ観れていないので早めに観たいです本当に。

 

こういった映画の話題で避けて通れないのがタイトルにもあるように、

 

 

「洋画の邦題、ズレてないか問題」

そして

「洋画のポスターダサすぎないか問題」

 

だと思うのです。明らかにそれ中身とズレてないか?という邦題とか伝えたい事ブレてないか?みたいな広告を打たれてしまってる洋画って見たことありません?僕は何個かあります。タイトル問題で言えば『ゼロ・グラビティ』や『恋人はセックス依存症』とか。どちらもどうにもなんか内容としっくり来ていないというか。前者の原題は『Gravity』で正反対な印象ですし(僕は内容見た感じですと原題の方が好きです)後者は『THANKS FOR SHARING』で刺激的な邦題とは全く違うヒューマンドラマテイストなタイトルです。というか内容は思いっきりヒューマンドラマです。ポスターが大変な事になっている映画はもうキリがないので1つだけ。「アベンジャーズエイジオブウルトロン」です。これはもう完全にやられました。悪い意味で。

 

なんでこんな邦題の付け方をしないといけないのか、なんでこんな広告を打たないといけないのか。邦題だって勝手に日本側だけの独断で付けている訳では絶対にないはずです。という事は本国側もこの邦題でGOサインを出しているわけで。なぜこんな事が。

 

考えられる1つの理由として「日本の映画産業が衰退して来ていて映画館で観る人が少ないからタイトル・ポスターで目を引くしかない」という事は挙げられないでしょうか。映画館数は2004年をピークに減少の一途を辿り、3D映画の登場で盛り返すと思われるも3D対応TVの登場で再び打撃を受け、そこにhuluなどのネットでのサービスが台頭しもう大変な状況なわけです。そうなるともう配給会社としてはやる事はただ1つ。なんとか消費者の目に留まるように創意工夫を凝らすしかないわけです。

 

ただこれが失敗とは僕は思いません。こうして「ダサくね?」とか「ズレてね?」って話題に上がってる時点で配給側の目的はある程度達成しているからです。まあ映画館でお金を落としてくれないとってのはあるわけですが。 

 

さて、ここまで書いた時に僕はふととんでもなく恐ろしい事に気がついてしまったのです。あれ?これって「他人に自分をどう見せるか?見られるか?」って事に応用ができるよな?って。

 

日本でも公開される洋画となれば内容はまあピンキリにしろ面白いわけです。ただいかんせんそれを包装しているモノが日本ではウケないから、ああいった邦題やポスターで再包装しているわけです。

 

「人は外見なんかより中身だよ」なんてよく言われますがこの理論だと若干の疑問を挟む余地が生まれます。つまり中身で勝負するにしてもその市場にあった包装がされていないと苦しい勝負を強いられる訳です。そろそろ新生活を始める皆様にあたっては様々な包装紙をご用意しておいていただけると公私共に役立つかもしれません。

 

 

 

カビみたいだなあ

こんばんはこんばんは。お久しぶりです。別に書くことに飽きていたわけじゃないです。どうにも忙しかったのとなんかこうモチベーション的な何かが上がらなかったというか。まあ実際モチベーションなんて気にしてたらやってられないんですけどね。ただ淡々と粛々と目の前のやるべきことを片付けて行けばいいわけで。そこにモチベーションを介入させちゃうとどうにも効率が悪くなってしまいます。まあ別にこのブログはそんな肩肘張って常にやらなきゃ!ってものでもないので本当にこういう風に気の向いた時にキーボードを叩いてるわけなのですが。

 

いやまあじゃあ果たして僕がやるべき事、つまり学業に上記のように取り組めているかと言えばまあ疑問は残りますよね。いや、やってることにはやってるんですけどね。まあなんというか自信は発生しませんね。まあ確実に原因はあれですよあれ。完全に僕はダメ人間だっていうことを他の誰でもなく僕が一番よく知ってるからです。自分で貼っちゃったレッテルは他の誰かに貼られたそれよりも剥がすのが大変というかもう剥がれないというか。自分に対する自分での評価ってかなり大きなきっかけがないと変わらない気がします。なんていうかこう今までやってきちゃった失敗がある分、しかもそれは他ならぬ自分がやってきちゃった事だからこそ心の何処かにこびりつくし、他の人からいい評価をもらって綺麗な水で満たされた時にこそそのこびりついた汚れが目立つんですよね。

 

だからこう自分を一番信用してないのは自分なわけで。まあだからこそ頑張らないとなというかやらねばという気にはなるのですが。とりあえず目下の目標は大学からの友人にはなんとかしてこの自分のポンコツ具合を隠し通す事です。

私は新宿駅になりたい

こんばんはこんばんは。いよいよ冬本番ですね。木曜日なんて予報だと雪が降るらしいですよ、怖いですね。1年があっという間です。

 

さて、今回のタイトルですが、別に進路に悩みすぎてトチ狂ったわけではないです。大丈夫です、私はまだ人です。先日、というかもうだいぶ前に「もうレールに沿って歩みたくないから大学中退して企業」とかいうのが少しネット界隈をざわつかせたのを皆さんはご存知でしょうか。僕からしたらじゃあそのレールに俺が乗り換えて走り出すからとっととそこをどけと言いたいところですがまあそう主張したくなる気持ちもわからんでもないのでまあそれはいいとして。

 

僕が言いたいのは少なくとも「敷かれた」レールは存在しないのではないかということです。いや、これが小学生が親に無理に行かされてる習い事を辞めるときに放ったセリフなら「おお。素晴らしい。」となりますが大学選びの時なんてもう18歳です。親の意見を取り入れることもあるかとは思いますが主たる意思決定はもう自分がするべき、というかしたのではないでしょうか。

 

というかそもそもレールに沿って何がつまらないんでしょうか。確かに「今」はレールにがっつりとハマって進んでいるかもしれませんがそのレールがどこに続いているのか、終着駅はどこなのかをハッキリと況してや大学入学4ヶ月で見定めることなんてできるのでしょうか。僕はちょっともったいないかなって思います。思いがけないところでレールがまさかの方向に曲がっている可能性だってありますし、それが絶対失敗につながっているとは限らないわけで。少年漫画的に言えば行き先の見えない旅路なわけですからこんなにワクワクすることはないです。

 

さて、ここでようやくタイトル回収をしましょう。新宿駅は日本で最大のターミナル駅とも呼ばれる駅です。1日の平均乗降客数が横浜市民の数と並ぶというもう想像ができない数字です。自分の進路、就きたい職業、未来の理想を「レール」と定義したときに我々が可能性に溢れていた幼い頃からすべきことは、たったひとつで。そのレールの数を最大限残したまま大人へと突入することです。僕が今からプロスポーツ選手を目指したところで意味がないのと同じで、そのレールに進みたければその路線経営を幼い頃からキープしておかなければなのです。運動して、勉強して、遊んで。残し方はたくさんあるかと思いますが最大限の努力をしなければならぬのです。

 

正直、もう僕に残されてる可能性、レールの路線数はほとんどないです。ただ、もしかしたらこの残った路線こそがきちんと終着駅にたどり着いてくれるのかもしれません。もしかしたら他のレールで事故ってたかもしれないからね。ああ、ただできることなら多くのレールを抱えてるあの駅に。新宿駅に私はなりたい。そして実はよく読んでみるとこのブログ中身空っぽの可能性がありますね。精進。

ダメ学生名作を読む『姑獲鳥の夏』 作 京極夏彦

こんばんは、こんばんは。最近いきなり冷え込みましたね。おまけにスッキリ晴れることもめっきり少なくなり洗濯物がしっかり乾かずに困っています。乾燥機付きの洗濯機が欲しいです。

 

今回の記事ですが「おい、書くことねぇぞどうしよう」と困った僕がカップラーメンを食べ、麦茶を飲んだ瞬間に脳内に舞い降りた企画となります。まさに天啓でした。「そうだ、ダメ学生の僕でも読めて、面白いと感じる本であればその本は万人に受けるはず。皆様におすすめしなければ」と半ば自虐的で使命感にすら似たような思いつきでしたがずっっとブログを更新しないわけにもいかないのでこの企画はレッツゴーということにあいなりました。

 

さて今回僕がおすすめするのは『姑獲鳥の夏』という京極夏彦先生の書かれたミステリー小説となります。

 

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

 

 

 

これをミステリー小説とたった一言で言うことができるのかどうなのかと僕は読了後からずっと悩んでいるのですがここではミステリー小説と説明させてください。

 

舞台は戦後間もない日本、古書店を営む通称"京極堂"と精神に不安定さを抱える売れない小説家関口、頑健で真面目、現場主義な刑事木場、人には見えないものが見える変人探偵榎木津。これらの人物が20ヶ月も妊娠したままであるとの妊婦とそれを取り巻く怪しげな病院を舞台に謎と相対する物語となっています。

 

僕がこの作品に興味を持ったきっかけは大学で民俗学の講義を受講したことでした。もともと、そういったオカルトチックー読んでくださればわかりますが京極堂はこの表現を嫌いますーな事に興味があり、各地の伝承や民話を本で探したりネットで見る事が好きな少年であった僕からするとその講義を受ける事ものめり込むのも必然でした。民俗学の魅力に取り込まれた僕が柳田國男先生の本を経て本屋さんで運命的な出会いをしたのがこの本でした。作中では謎を解くために各地に伝わる民話や、お寺のルーツ、民族信仰を巧みに組み合わせ真実へと近づいていきます。そう、この作品をミステリー小説と紹介することにわずかな迷いを覚えた理由は、この作品は犯罪を解決するという形は取っているものの、それよりも民俗学的、宗教学的な側面からアプローチしていくことが多いため一般的なミステリー小説に見られる推理をするかというと「うーん、してはいるけど」みたいな答えしか僕はできなくなるからです。

 

ただ、このシリーズにおける京極堂の名台詞「この世に不思議なことなんて何もないのだよ」に表現されるように、京極堂が行う自身の持つあらゆる知識を使った、時には友人関口たちからすらペテンだ詭弁だと揶揄されるような、それでいて筋の通ったストンと腑に落ちる推理を読むと「ああ、不思議なんてないんだ」と納得させられてしまいます。この台詞回しは一読の価値ありです。

 

また、この作品はもう15年以上前の作品であるにもかかわらず仮想現実や万能細胞を示唆するかのような表現があり作者の非常に深い知識を伺えます。そしてそれら未来の科学技術の根本には太古から存在する非科学的な問答をする必要性が強く残っている事までも読み取れます。例えば万能細胞を使って人間を作った時、果たしてそれは目覚めるのか、魂が宿っていないのに。というような。

 

この物語の結末はきっと誰もが考えなかった、ある意味ミステリー小説としては反則かもしれません。でも最後まで京極堂の推理を、関口の苦悩を、木場の実直な捜査報告を、榎木津の突拍子もなくそれでいて真理をついた語りを読み通したあなたにはきっと「何も不思議はない」結末となっているでしょう。京極堂に「謎」という憑き物を落としてもらい、京極堂の「魅力」に取り憑かれましょう。

 

ぜひご一読を。

 

ちなみに僕はもうすぐシリーズ3作目の『狂骨の夢』を読み終えそうです。

【ネタバレ】『君の名は。』2回見てある程度わかったこと解説。本編未見の人は見ない方がいいよ。

こんばんは、こんばんは。

本日川崎チネチッタにて2回目の『君の名は。』観てきました。

 

この劇場、前評判から期待してたけど音響素晴らしい。音楽も効果音も1回目の時とは別物に感じるくらいよかった。彗星の爆発音とか特に。

 

さて、じゃあ今回は『君の名は。』を初めて観た時の疑問が2回目によっていくつか解決したからそれを書いていくよ。ですます調で書くとめんどいからであるとかで書いていくけど許してね。そしてとんでもないネタバレあるからタイトルにもあるけど本編未見の人は絶対見ない方がいいよ。

 

 

①そもそも入れ替わりって?

これは初回から、はて?と思ってた。入れ替わり相手の選択はどのように行われたのかって。

 

多分キーになってたのはあの瀧くんがお守り代わりに付けてた「組紐」で、三葉がそれを渡したのはまだ瀧くんが入れ替わりを体験してない時。

 

逆説的だけどここである種の座標決定みたいなのが行われたのか、それとも「組紐」自体が入れ替わり先の座標なのか。多分どっちか。

 

②誰そ彼時の授業の黒板に書かれてた短歌は?

歌が思い出せない‥!でも確か、詠み人知らずで、

意訳すると

 

「夢に愛するあなたが出てきた、この夢が覚めなければいいのに」みたいな感じ‥。

 

多分これは三葉と瀧くんの事を示唆してるね。

 

③なんで町長は三葉の説得を最後は聞いたのか?

多分これは町長、つまり三葉のお父さんである宮水俊樹も、三葉のお母さんの宮水二葉との入れ替わり体験者だから。

 

三葉の祖母である一葉が、自身も入れ替わりの体験があるかのような話をしているからおそらく入れ替わり能力は宮水の女性が若い頃に発現する。

 

ここで少し話を変えてみると、なぜだか三葉以外の宮水家の人間には入れ替わり先、そして恐らく結ばれた相手であろう人物が登場しない。

 

宮水俊樹と宮水二葉この2人の関係に至っては能力者である二葉本人がいなくなっている。

 

これは多分物語構成上、その人物がいると三葉と瀧くんの入れ替わりに気づく人物が出てきてもおかしくなくなってしまうから。だから、入れ替わりについて知っていてなおかつ当事者である三葉の近くにいるのは祖母だけの方が話が進めやすい。

 

ここで宮水俊樹に話を戻すと、三葉in瀧くんが町民を避難させるよう説得すると、「妄言は宮水の血筋か‥」と宮水俊樹が呆れるセリフがある。はて?妄言とは。という事は俊樹が知っている宮水の人間が突拍子もないことを言うことを今までに聞いた経験があるという事になる。まるでいつもと違う人間かのようなセリフを。

 

更には、回想シーンで描かれる二葉との死別のシーン。「救えなかった‥」と泣いている。

 

救えなかった?妻を亡くした夫のセリフにしては妙に違和感がある。医者でもないのに。恐らく宮水俊樹は失敗した瀧くんなのである。

 

いや、失敗ではないか、四葉ちゃんを出産した事が二葉の体調が崩れてしまう引き金になったのだとしたら宮水俊樹はそのどちらかを選ばざるをえなかった。そして恐らく、入れ替わりを使って両方を助ける手立てがないか模索したが結局四葉ちゃんを選ばないといけなかった。というところだろうか。恐らく宮水俊樹は二葉が四葉を産めば体調を崩す事を知っていたのかもしれない。

 

そして話を三葉in瀧くんが宮水俊樹に会った時に戻そう。「お前は誰だ?」と言っている。恐らくここで宮水俊樹の中に眠る入れ替わりの記憶が少し目覚めたのだと思う。

 

そして恐らくこの入れ替わりは毎回、過去と未来とで行われる。そうでなければ、二葉と宮水俊樹の時も時間差で入れ替わりが行われていなければ、三葉が説得に来た時も応じるわけがない。

 

だって宮水俊樹からしたら目の前にいる三葉は自分と二葉のように入れ替わりを体験していて、ということは未来を知っていてこれから先起こることを確実に知っていると断定できないのだから。

 

2回観てわかったのはこの3つかな。そしてまだ終わりじゃないよ。この③の仮説が正しいとすると、入れ替わり能力についてある1つの答えが導ける。

 

それは、「入れ替わり能力は宮水の血筋を絶やさない為に存在する能力」ということ。

 

糸守の街には1000年前にも彗星が落ちていることが本編でも描かれてる。多分この時にも入れ替わりが起きているはず。

 

宮水の御神体があんなに遠く離れた場所にあるのは、そもそも1000年前はあの御神体が会った場所に村、神社があったから。しかし彗星が落ちてくることを知った当時の入れ替わり能力者によって避難した先に三葉たちが住む村ができた。

 

と、考えれば神社と御神体があそこまで離れている理由も説明できるし、御神体に彗星の絵が描かれている理由も説明できる。宮水俊樹が四葉ちゃんを選ぶ事しかできなかったのもたぶんこの宮水の血の存続の為という能力の本質が導き出した答えだと思う。

 

ざっと書いたら長くなってしまった‥最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。

 

あともう1回くらいは、映画館で見ようかな。普通に泣いちゃったよ今回。

『君の名は。』観てきたよ。名作だったよ。ネタバレ含むよ。

こんばんは。こんばんは。明日休みだから夜更かししながら書いてます。ネタバレ含むから気をつけてね。

 

昨日ようやく『君の名は。』を観ることができました。いやーもう感想はたった一言、「最高」これだけです。間違いなく僕はあと2回は映画館で観ます。

 

TV番組でも話題になっていた美しい絵と音楽。これぞ新海誠!!と言わんばかりのクオリティでした。水筒に注がれたお茶のシーンなんてまるで実写化といっても過言ではない液体の表現でした。

 

いわゆるセカイ系と呼ばれる要素とタイムトラベルのSF要素、そして恋愛要素。この3要素が見事なバランスで描かれていました。音楽も大変素晴らしく冒頭から一気に物語に引き込まれました。

 

セカイ系といえばポストエヴァとも呼ばれ、日本のサブカルチャーにおける物語の類型の1つです。主人公とヒロインの間で起こる問題がそのまま世界の危機、人類の危機に直結するという物語構成であり、たいていの場合、その中間にあるはずの社会の動き、大人の動きはほとんど描かれることのないため、お手軽に話のスケールを大きく膨らませることのできる手法です。まあ僕は嫌いじゃないジャンルです。

 

一体何でこのオタクの方々向けのジャンルを主軸に据えた物語がいわゆるリア充の方々にウケたのでしょうか。僕が推測するに1つは音楽担当がRADWIMPSである事。ですがこの理由は少し弱い。

 

オタク向けでありながら、「萌え」の要素が最低限を残して物語から排除されている事ではないでしょうか。例えば主人公のバイト先に年上美人な女性がいますがおそらくアニメファン層を狙っていたらもう少し女性の露出が増やされバイト先もあんなオシャレなレストランではなかったでしょう。つまりオタクにも納得できリア充にも許容できる範囲にまで「萌え」を昇華させ、別物にしていることが成功の秘訣ではないでしょうか。

 

まあここまでタラタラと書きましたが結局は一言に収まります。「最高でした」

『そして、誰もいなくなった』はどこで間違えてしまったのか

お風呂の中からこんばんは。もはや習慣となってしまった半身浴の最中にこれを書いております。汗をかいてブログをかいて、というわけですが全くうまくありませんね。

 

さて、先日最終回を迎えた日テレ系ドラマ『そして、誰もいなくなった』ですが。アバウトな聞き方になってしまいますがみなさんどうでした?

 

最終回見た直後に藤堂新一よろしく「ちがぁぁぁぁう!」と叫びたくなりませんでした?僕はなりました。

 

あのドラマ、本当に最終回を除けば近年稀に見るかなりの高クオリティのドラマだったと思います。丁寧に振り分けられた伏線と、1つ謎を解くとつられて出てくる別の謎。

 

それがまさか、あんなふんわりと‥。ふわっと終わらせてくるとは‥。ほったらかしにされた伏線なんて何個あることか‥。

 

一体このドラマはどこで間違えてしまったのか。少し考えてみたいと思います。まぁ素人の浅はかな勘ぐりと思って読んでいただければ幸いです。

 

まずタイトル。僕このドラマ最初はアガサクリスティが原作のものかと思ったんです。同名の有名小説がありますし。ところがどっこい違った。それなら何かオマージュ的なものがあるのかなと思えばうーんという感じ。まぁ藤堂目線のタイトルと思わせておいて実は日下目線でのタイトルだったっていうこの感じは嫌いじゃないです。最終的に孤独になった、つまり周りに誰もいなくなったのは藤堂じゃなくて日下だったよっていう。最後まで見て納得的な。ちなみにこのドラマを最後まで見て納得できる部分はこれが最後です。

 

そして伏線。もうこれに関してはもう。なんでだとしか言いようがないというか。なんで今まで丁寧に出来てきたことが最後いきなりできなくなるんだ。話のペースミスなのか、それとも最初から回収するつもりがなかったのか。それか本編で語りはしないけどみんな想像してね、わかるでしょ?っていう投げやりスタイルなのか。

 

まぁ確かに1クールという限られた時間の中で全てを語り明かすのは難しいのかもしれませんが‥。せめてもう少しやりようはあったはず。期待値はめちゃめちゃ高いドラマだったのにもったいない。

 

ああ。煩雑な文になってしまった。暑い。