ダメ社会人のダメじゃないかもしれない毎日

日々の楽しいことだったりいろんなことを記事にするよ!!

さあ、夢を広げよう

 

おはようございます。おはようございます。なぜだかギンギンに目が冴えてしまって眠れません。仕方ないので諦めて布団から出ました。うっすらと外が明るくなってきております。

 

そういえば来週に新型iPhoneの発表が来そうな感じのようですね。去年iPhone6が発表された時からもう1年経つのかと思うと時間の流れる早さに驚きます。思えばその頃はまだAndroidユーザーでした。懐かしいなあ。僕はおそらく来週発表されるであろう新型iPadに目をつけています。最近Vaingloryというアプリにはまっているのですが今僕が使っているiPhone6plusでもまだ少し小さくてプレイしづらいのです。でも発表されるのはiPadproっぽいんだよなあ。やっぱりAirと比べると厚くなっちゃうかなあ、それならAir買うのもありだなあなんて思っています。

 

そんなことを考えていてふと思った事があります。僕たちはだいぶ未来に生きてるなあって事です。身の回りの事の大抵がみんなのポケットに入る機械で難なくこなせる世界ですからね。僕が幼稚園生くらいの時から比べると驚異的なスピードで文明が発展した気がします。だってあの頃なんてようやくゲームボーイが出た頃です。初代ポケモンを幼稚園生の頃の僕はやっていたはずです。ドット絵ですよドット絵。しかも電源は乾電池。それが今となってはカラーも当たり前、挙げ句の果てには3Dも当たり前ときたらもうそれこそほんと一昔前はSFの世界にしかなかったような物がぞろぞろと出てきて恐ろしいです。もちろん発展して当たり前なのですがあまりにもそのスピードが驚異的な気がします。このまま行くとあと20年もしたらナーヴギアあたり現実化してそうですよね。わからない人はSAOを読もう。

 

オカルトな話も大好物な僕からすると文明の爆発的加速ポイントには人間以外の何かの意思が関わっているような気もします、宇宙人とか。もちろん僕はこういう話はフィクションである事を分かった上で空想で楽しんでます。不思議なものですよね、科学が発展すればするほどそれには非科学的な『何か』が関わっているんじゃないかとわくわくしてしまうんですから。

 

 

気付かされた事。

 

こんばんは、私です。

今更になってブログの書き出しを定型化しようかと思い始めました。でも何もいいアイディアが思い浮かばないのできっと達成はしないです。

 

今日はいつものように何を書こう!と気張っているわけではないのでブログの長さがどれくらいになるか今の僕にもまだ分かっていません。もしかしたらすごく短くなるかもしれないしものすごく長くなるかもしれません。

 

じゃあこんな時間にわざわざキーボードをカタカタしなくてもいいんじゃないかと思われると思いますが、あれなんです。ブログとかこういうある程度まとまった文章量が必要になるものってある程度の時間と根気とあと1つ、なにかこう上手く波に乗るような事が必要だと僕は思ってます。その波が今来てしまったのです。詩的に言うなら溢れ出る言の葉の奔流に流されぬよう言葉を汲み上げていく感じです。あまり詩的じゃないですね。

 

学生の頃からずっと秘めてる夢があります。結構友達とかに話してるから秘めてはないか。まあいいか。それはいつか自分の書いた文章で生活していけるようになりたいという夢です。思えば小さい頃から活字に塗れて生活してきました。きっとその頃から活字の魅力に取り憑かれていたんだと思います。僕が幼稚園生の頃に発売されたハリーポッターをその歳でしっかり読破していたんだから今となっては自分でも驚きです。でもそれくらい活字、言葉には魅力があるんだという事だと思います。無限に組み合わさって、無限に広がっていく文章世界にどっぷりと浸かる様な読書体験、きっとそれを幼い頃に味わえたからこそ、その世界をもっと広げていきたいという夢を僕はもったんだと思います。

 

そんな僕は最初は電子書籍にあまり良いイメージを持っていませんでした。読書はやはり紙媒体じゃないと、あの表紙を捲った時にふわっと漂ってくる紙の匂いと、ざらっとした紙の手触り。あの活字による視覚への刺激以外の五感を刺激される感じがあってこその読書だというポリシーが僕の中にいつの間にか出来上がってしまっていました。それにあの本屋を本棚を見ながら練り歩く楽しさ、読み終わった本を丁寧に自室の本棚に仕舞っている時の眺め。それが欠かせないと思っていました。

 

ですがそんな信条を崩されてしまう出来事がありました。それは何を隠そうこのブログを始めた事です。よくよく考えたら、僕はもうすでにこのブログの様なウェブ記事からも刺激を受けてしまっていました。そう、活字がもう紙にしかない時代はとっくの昔に終わっていたのです。確かに小説や新書には紙で読むといった固定観念がありがちですがPCやスマホタブレットで読むのも今となっては別に全く不思議な事ではなかったのです。まさかまさかでした。自分でこういった何かを書き続けるという事を始めなければ気づかないとは自分の視野の狭さに驚きます。そして僕はもうすでに読書用のタブレットを買おうと着々と資金の準備を始めています。切り替えは早いです。

 

でもやっぱりこれからも紙媒体の本を買うのはやめられないだろうなあ。

 

 

こんなテレビどうでしょう

 

なんだか最近テレビがあまり面白くない。いや、あくまでも個人的な感想なのだが。

 

あまりにも予定調和過ぎるような番組全体の流れ。視聴者に対してここで泣け!と言わんばかりのお涙頂戴構成。確かに何かに感動して涙を流すという事はとても美しい行為であり、心のリラックスにも欠かせない。でもどうだろう、なんだか今のテレビでは本物の感動がないような気がする。さっきも書いたが制作側が意図した、ここで泣け!という様な言うなれば感動スイッチにただ素直に反応して泣いてるようではいけないのだ。それではただの餌を前にしてよだれを垂らす犬となんら変わりない。

 

じゃあどんなテレビだったら僕は見たいのか。僕はライブ感を押し出した物がもっと増えてもいいと思う。何が起きるかわからないような。確かにテレビ番組である以上予定調和に越した事は無いんだけれどもそれを視聴者に感じさせない構成。いいじゃないか、肩肘張ったような番組ばかりでなくとも。愛は地球を救うかもしれないけれどもある程度の緩さ、いや、あえて「ゆるさ」と書こう。それだってきっと地球を救うよ。空港で来日した外国人と触れ合うのもいい、原付で日本横断するのだっていい。もっとゆるくたっていいんじゃないかなテレビって。

 

 

時間の重さ。

 

 

いよいよ夏が終わりだ。日が沈んでから外を出歩くと涼しくて心地よい風が身体を撫でていく。詩人のような書き出しをしてしまったが別に感傷的になってるわけではない。ああ、でもいつの間にかあっという間に夏が終わり1年の内半分が終わってしまった。なんてことだ。まだ彼女と映画館にも行っていないし彼女と海にも行っていないし彼女と肝試しもしていない。と、ここまで書いたところでようやく自分に彼女がいないことに気がついた。外気の温度差についうっかりしてしまった。

 

堀北真希も結婚しちゃったし。大ファンとしては嬉しくもあり寂しくもある。しかも噂では交際0日、モーションかけてから2ヶ月でのゴールインだというではないか。すごいよ山本さん、憧れるよ。師匠と呼ばせてください。俺なんて2ヶ月あってもなにもできやしない。強いて言えばなんだろうか、、やばいぞなんにもないぞ。

 

よくよく考えてみると今までの僕は無駄に日々を過ごしてしまっていたのかもしれない。1日1日積み重ねられたはずの経験値を積み忘れたことがあったかもしれない。まさか結婚ニュースを聞いて自分の人生について考えさせられるとは。さすがです、山本さん。

 

ああ、野ブタパワー注入されたいしアロエヨーグルトを持って踊る堀北真希を生で見たかった。そんな思いに浸る夏の終わりの午前3時。秋が近い。

 

もうしてるよ時間旅行

 

「ああ。あの頃に戻れたらな」なんて思い返すことはきっと誰にでもあると思う。僕もそうだ。というかかなりの頻度である。あのとき楽しかったから戻りたいなっていうのもあれば、あの時のアレをやり直したいから戻りたいってこともある。でも僕は時速140kmで走ってもタイムサーキットには突入しないし机の引き出しが時空間に繋がってる訳でもない。ただ只管にあの懐かしき日々に想いを走らせるだけなのだ。

 

高校生のころから今にかけて、毎回新しいのが出るたびに欠かさず買っている本がある。空想科学読本と科学雑誌のnewtonだ。この2つの本は素晴らしい。前者はアニメや漫画などの空想世界の出来事であったり必殺技について科学を用いて考察するという本なのだが、もう、なんというか出来ることならば筆者様の脳の中身をまるっと全部お見通しさせていただきたくなる。あの想像力はどこから来るんだろうか。後者は打って変わって真面目な本だ。いや、前者も真面目な本なのだが真面目のベクトルが違うというか。気になってしまった方はぜひ最寄りの書店へ走ろう。そう、newtonは実際の今の科学世界がどのようなものかを教えてくれる雑誌だ。中でも僕の一番のお気に入りはタイムマシンは可能か、時空間移動は可能かといった時間と空間の特集が掲載されていた巻だ。

 

あれは読んだ時僕の頭に衝撃が走った。あ、もちろんとてもわかりやすく噛み砕いて説明されているから僕でも理解できるのだ。なんだろう、読んでいると僕の頭に新しい宇宙ができたようなデカい衝撃。こんな知らない世界があったのか!とあの時の僕はむしゃぶりつくように読んでいたと思う。

 

それによるとどうやら理論的には時間移動は可能らしい。超ひも理論ワームホールといったSF映画でしか聞いたことのないような単語をなんとか噛み砕いて理解した結果だ。ただ今の科学技術では到底不可能だが理論の入り口になるような糸口は見つかっていると。

 

さあ、これで希望は繋がった。いつか僕の子孫がもしかしたら僕の失敗をやり直しにこの時代に来てくれるかもしれない。パラドックスを乗り越えて僕の過去も変わるかもしれない。ああ、でもやっぱりそれは僕は望まない。過去の事があって今の僕がいる。もし今までどこか1mmでも変わってしまっていたらそれはもうきっと僕ではない。

 

いろいろ考えた結果、やっぱり僕には朝起きたら8秒前の日光を全身に浴びて、夜には遥か何億年も前の輝きを放つ星々を見るっていうプチタイムトラベルが身の丈にあってるのかもしれないな。そうしながら全力で「今」を生きていこう。

ソシャゲの流れ

 

割と結構ソシャゲをやってる方だと自分でも思うんだけど最近どうしても気になっちゃう事がある。あまりにも運営とユーザーの距離が近すぎるんじゃないかなって思う。

 

名前は出さないけど同じ色を3つ消して攻撃するあのドラゴンモチーフのゲームなんて特にそうだ。自分が気に入ってるキャラが強化されなかったとかダンジョンのギミックがどうのとか。確かにある程度ユーザーが意見しなければいけない時もあるのは事実だ。でもなんかちょっと多すぎないか?ごねた者勝ちな流れが若干あるような気がする。なんかこう、自分の気に入らないものは全て悪だみたいな。

 

いや、違うだろう。あくまでも僕たちは運営が用意したルールの中でプレイする立場なのだ。別に従順な犬になれと言っているわけではない。ただなんでもかんでも文句をつけるのは違うと思う。

 

冒頭にも書いたけどもこの原因は運営とユーザーの距離が近くなりすぎた事だと思う。昔は買った商品に対するクレームや商品に関する意見は販売元にわざわざ電話をしなければいけなかったし、何よりも自分の口を使って喋らないといけないという関門もある。

 

しかし今は違う。Twitterで対象のゲームのプロデューサーのや、広報のアカウントをフォローしてちゃちゃっと自分の要望だけ書いてメンションを送れば完了だ。口に出して会話するのとは違う。一方的なコミニュケーションだからこそ、ここまで簡単になってしまった。だからこそ無責任な意見だったり文句を簡単に言えるのだ。

 

なんだかなと思う。なんかこの流れがいつまでも広がると、勝手な想像だがゲームのクオリティも下がると思う。炎上を避けたいという事が開発の目的になってしまって様子見、石橋を叩き過ぎるようなゲーム開発になっていく気がする。それで一番損をするのは我々ユーザーなのだからもう少し暖かい目で運営を見守っていく事が必要なのではないだろうか。

 

ガチャで悲惨な目にあった時は必死にこう理論武装して耐えている。

 

トイレの紙様

 

 

お腹が痛い。今腹痛に苦しみながら必死にキーボードを叩いている。ここ2日ほどずっとお腹の調子を崩している。小さい頃からずっとお腹が弱かった僕だが、いつか治るだろう治るだろうと思っている間にこんな歳になってしまった。

 

今回の原因はなんだ、、アイスの食べ過ぎか?ピノがすごい最近お気に入りだ。それとも夜お腹になにもかけずに寝てしまっていたのだろうか。それとも冷たい飲み物の飲み過ぎか。。まだまだここまでしか書いていないのにもう2回もトイレに駆け込んでしまった。

 

幼い頃から腹痛にずっと悩まされてきた僕が見出した耐える方法は神に祈る事だけなのだが、これではいっこうに良くならない。確かにいくら我が国には八百万の神々がいるとしても1億2千万人の肛門の面倒までは見ていられないだろう。というか自分が神だったとしていくら敬虔な信者のだろうと肛門に加護を授けるのはなんか嫌だ。というか基本無宗教者が多いこの国でそんな時ばかり神頼みされたら逆に腹痛を授けるね僕が神なら。

 

そういう僕が一度だけトイレの中で本気で神に助けを求めた事がある。公衆トイレに入ったら紙がなかったのだ。いや、シャレではない事実だ。目を背けたくなるような現実なのだがそこから目を逸らしても僕の尻は綺麗にならない。あれほど真面目に祈った事は人生においてなかった。それこそ宗派を問わず世界中の神に祈った。おそらく世界中の誰もがあの時の僕と同じ状況になれば世界は平和になる。そして神は僕に天啓を与えなさった。そう、水に流せるポケットティッシュを数袋カバンに入れていた事を思い出したのだ。それでなんとか事なきを得たのだ。もしもそれを持ってなかったらと思うと今でも尻が震える。神に見放された時は自分の手で運を掴めという有名な格言を実行する羽目になるところだった。もちろんそんな事をすれば神だけではなく人々からも見放されるだろう。

 

昔話をしていてもこの傍若無人な腹痛に一体どう立ち向かえばいいのかもうなんにも思いつかない。いっその事物理的に栓でもしてやろうかと思ったけどもそれでは痛みに対してなんの対策にもなっていない。むしろ出せないから痛みは続くだろう。悩ましい。

 

なんとまあ、苦しい試練を神は我々に与えたもうたのか。