ダメ社会人のダメじゃないかもしれない毎日

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あの日見た実写化の作品を僕たちはまだ受け入れられない

 

こんばんは、非常に久しぶりな更新な気がします。なんだかのんびり過ごしてしまっていて書く気が起きませんでした。

 

先日とうとう実写版の「あの花」が放送されてしまった。僕も恐る恐る見ましたが…、まあこれはこれでというか、BGMの凄さを思い知ったというか、アニメを見た記憶があるからアニメの絵が重なって感動するというか、そもそもアニメで充分だったというか。

 

それにしても最近妙に実写化作品が多い気がします。デスノートど根性ガエルに。少女漫画でいえば人気な漫画は大抵が映画かドラマになっている気がします。正直に言うと、少女漫画の実写化はいいんです。あと料理漫画とか。幼馴染の幽霊が出てきたり、名前を書くだけで人を殺せるノートが出てきたりといった現実離れした事象が起きる漫画以外であれば実写化は大歓迎です。『孤独のグルメ』のドラマ版好きですし僕。

 

一番大事なところはそこであって3次元で実現できそうもないからこそ2次元で楽しもうとアニメや漫画にしているのにそれが人気が出たからと言ってよし、実写化だ!は本末転倒というか、そもそも負け戦みたいなもので。

 

それでも中には成功というか、世間的に叩かれなかった物もあり、映画版デスノートに、海外のものですがアベンジャーズシリーズとか。でもそれは稀なヒット、というか実写化ドラマとは違って莫大な予算と時間と人材をかけられるからであって、普遍的なものではないため実写化作品というのはアベレージヒッターではないと思うのです。

 

テレビ離れが叫ばれる昨今、確かにもともと多くの固定ファンがいる原作をドラマにしちゃえば視聴率ゲット間違いなしと考えるのは納得のいく道理ですがそれだけに頼ってしまっていてはヒットどころか空振り三振、バッターきりきり舞いな気がします。

なぜ携帯小説が流行ったのかを真面目に考えてみる。

 

 

おはようございます。最近不眠症気味の私です。ですがいたって健康です。

 

突然ですがこのブログを読んでくださっている方の中に携帯小説を読んだことがある人はいるでしょうか。ブーム全盛期が確か6,7年前です。懐かしいですね。僕はまだ中学生でした。なんで突然こんな話を始めたかというとこの間ブック◯フで恋◯が叩き売られていたのを見たからです。◯空は実写映画化までされた携帯小説を代表する作品ですからきっと聞いたことある人がほとんどだと思います。なのにあの作品が今となってはかなりの安値。ブームって怖いですね。

 

そこで私ちょっとラブスカイを手に取って買ってみました。レジに持っていくのが非常に恥ずかしかったです。とんでもない乗り遅れ感を味わうと共に、お前が買うの?みたいな店員さんの目線がビシバシ刺さりました。でもその店員さんが美人だったのでなんとか持ちこたえました。

 

家に帰って読んでみるとなんともまあ。なんともまあです。なんと言ったらいいかわかりません。そこでタイトルな訳です。ここはひとつ、なぜこれが、いや、そもそもなぜ携帯小説があんなに世を魅了したのか考えてみようではないか、と。

 

携帯小説とはその名の通り、携帯を使ってサイト上に書き込まれていった物です。そしてそれを書いていた作者は(本物かもしれませんが)自分は中高生であり、これはリアルタイムもしくは最近の話とした上で連載をするのが主流でした。ではなぜ多くの作者がこの手段を取ったのでしょうか。それを推測するのは簡単です。携帯小説を売る側が狙っていた客層はまさに中高生だったからです。それはなぜか。当時爆発的に中高生の間で携帯が流行り始め、1人1台持つのが普通になり始めたタイミングだったのです。ちなみに僕は当時持ってませんでした。だからあくまでも推測ですが一番最初に携帯小説を書き始めたのは恐らく本物の中高生ではないと僕は思います。あんなでっかい市場をプロが見逃すはずはないですから。

 

そして内容。もうはっきりと言ってしまいますがどれを読んでもほとんど内容は同じです。流行った物の焼き直しばかりです。大抵が性行為、ドラッグ、不治の病、レイプなどの犯罪、そして妊娠。ほぼ全ての作品のキーワードはこれです。あと浮気。いやこれは携帯小説的には複雑な恋愛事情と書けばいいのでしょうか。女子にはイロイロあるんだよ☆みたいな。ではなぜこの昨今騒がれているパクリとも呼べる物が当時は受けていたのか。ちょっと考えてみました。するとこれに似たある国民的ドラマを思い出したんです。そう、水戸黄門です。あのドラマ、ご老公が印籠を出す時刻が毎回同じだって事ご存知でしょうか。そう、携帯小説の内容が似ているのも水戸黄門のこれも「不文律」です。「テンプレート」なのです。「あ、これ知ってる〜、前読んだのと似てる〜」という体験が読者に安心感を与えそれが満足感に変わり最終的に購買意欲へと姿を変えるのです。そして携帯小説では印籠ではなく、中高生の年代にとって非常に身の回りにありつつ最も遠い物たちな訳です。不治の病による悲恋なんてのはそれこそ遥か昔から恋愛ものにはうってつけですからね。まさに憧れの対象です。

 

でもその中高生の憧れを全て主人公、もしくはその周りのキャラクターが実現してくれるという事が携帯小説最大の魅力です。キャラクターに自分を重ね合わせて、一喜一憂する。まさにエンターテイメントの楽しみ方の王道ですね。また、携帯小説はある部分では非常に現実とのリンク感が強いのです。もちろん、ドラッグや犯罪などが身の回りにある学生なんてほぼいないと思いますが、恋愛は違います。あ、今の私の恋愛事情あのキャラに似てる、、!なんて事が起こり得ます。するとこれまた加速度的にその物語にのめり込んでいきます。

 

そして大抵の物語、キーを握るのは携帯メールです。結構大事な話をメールで済ませる登場人物が非常に多いです。これは当時のメール文化を表しているのでしょうか。そしてLINEが流行ってしまった今では存在が薄くなってしまった「思い」がそこには確かにあるんです。「読んでくれたかな」という登場人物の思いです。既読マークがつかないからこそ不安になってしまう。不安だからちょっと危険な事もしてしまう。メールのやり取りのちょっとしたタイムラグが実はよく考えてみると登場人物の心理描写に役立てられるという見方もできます。

 

調べてみると意外や意外。携帯小説、穿った見方をすると奥が深そうです。またブックオフにでも行こうかな。 

 

さあ、夢を広げよう

 

おはようございます。おはようございます。なぜだかギンギンに目が冴えてしまって眠れません。仕方ないので諦めて布団から出ました。うっすらと外が明るくなってきております。

 

そういえば来週に新型iPhoneの発表が来そうな感じのようですね。去年iPhone6が発表された時からもう1年経つのかと思うと時間の流れる早さに驚きます。思えばその頃はまだAndroidユーザーでした。懐かしいなあ。僕はおそらく来週発表されるであろう新型iPadに目をつけています。最近Vaingloryというアプリにはまっているのですが今僕が使っているiPhone6plusでもまだ少し小さくてプレイしづらいのです。でも発表されるのはiPadproっぽいんだよなあ。やっぱりAirと比べると厚くなっちゃうかなあ、それならAir買うのもありだなあなんて思っています。

 

そんなことを考えていてふと思った事があります。僕たちはだいぶ未来に生きてるなあって事です。身の回りの事の大抵がみんなのポケットに入る機械で難なくこなせる世界ですからね。僕が幼稚園生くらいの時から比べると驚異的なスピードで文明が発展した気がします。だってあの頃なんてようやくゲームボーイが出た頃です。初代ポケモンを幼稚園生の頃の僕はやっていたはずです。ドット絵ですよドット絵。しかも電源は乾電池。それが今となってはカラーも当たり前、挙げ句の果てには3Dも当たり前ときたらもうそれこそほんと一昔前はSFの世界にしかなかったような物がぞろぞろと出てきて恐ろしいです。もちろん発展して当たり前なのですがあまりにもそのスピードが驚異的な気がします。このまま行くとあと20年もしたらナーヴギアあたり現実化してそうですよね。わからない人はSAOを読もう。

 

オカルトな話も大好物な僕からすると文明の爆発的加速ポイントには人間以外の何かの意思が関わっているような気もします、宇宙人とか。もちろん僕はこういう話はフィクションである事を分かった上で空想で楽しんでます。不思議なものですよね、科学が発展すればするほどそれには非科学的な『何か』が関わっているんじゃないかとわくわくしてしまうんですから。

 

 

気付かされた事。

 

こんばんは、私です。

今更になってブログの書き出しを定型化しようかと思い始めました。でも何もいいアイディアが思い浮かばないのできっと達成はしないです。

 

今日はいつものように何を書こう!と気張っているわけではないのでブログの長さがどれくらいになるか今の僕にもまだ分かっていません。もしかしたらすごく短くなるかもしれないしものすごく長くなるかもしれません。

 

じゃあこんな時間にわざわざキーボードをカタカタしなくてもいいんじゃないかと思われると思いますが、あれなんです。ブログとかこういうある程度まとまった文章量が必要になるものってある程度の時間と根気とあと1つ、なにかこう上手く波に乗るような事が必要だと僕は思ってます。その波が今来てしまったのです。詩的に言うなら溢れ出る言の葉の奔流に流されぬよう言葉を汲み上げていく感じです。あまり詩的じゃないですね。

 

学生の頃からずっと秘めてる夢があります。結構友達とかに話してるから秘めてはないか。まあいいか。それはいつか自分の書いた文章で生活していけるようになりたいという夢です。思えば小さい頃から活字に塗れて生活してきました。きっとその頃から活字の魅力に取り憑かれていたんだと思います。僕が幼稚園生の頃に発売されたハリーポッターをその歳でしっかり読破していたんだから今となっては自分でも驚きです。でもそれくらい活字、言葉には魅力があるんだという事だと思います。無限に組み合わさって、無限に広がっていく文章世界にどっぷりと浸かる様な読書体験、きっとそれを幼い頃に味わえたからこそ、その世界をもっと広げていきたいという夢を僕はもったんだと思います。

 

そんな僕は最初は電子書籍にあまり良いイメージを持っていませんでした。読書はやはり紙媒体じゃないと、あの表紙を捲った時にふわっと漂ってくる紙の匂いと、ざらっとした紙の手触り。あの活字による視覚への刺激以外の五感を刺激される感じがあってこその読書だというポリシーが僕の中にいつの間にか出来上がってしまっていました。それにあの本屋を本棚を見ながら練り歩く楽しさ、読み終わった本を丁寧に自室の本棚に仕舞っている時の眺め。それが欠かせないと思っていました。

 

ですがそんな信条を崩されてしまう出来事がありました。それは何を隠そうこのブログを始めた事です。よくよく考えたら、僕はもうすでにこのブログの様なウェブ記事からも刺激を受けてしまっていました。そう、活字がもう紙にしかない時代はとっくの昔に終わっていたのです。確かに小説や新書には紙で読むといった固定観念がありがちですがPCやスマホタブレットで読むのも今となっては別に全く不思議な事ではなかったのです。まさかまさかでした。自分でこういった何かを書き続けるという事を始めなければ気づかないとは自分の視野の狭さに驚きます。そして僕はもうすでに読書用のタブレットを買おうと着々と資金の準備を始めています。切り替えは早いです。

 

でもやっぱりこれからも紙媒体の本を買うのはやめられないだろうなあ。

 

 

こんなテレビどうでしょう

 

なんだか最近テレビがあまり面白くない。いや、あくまでも個人的な感想なのだが。

 

あまりにも予定調和過ぎるような番組全体の流れ。視聴者に対してここで泣け!と言わんばかりのお涙頂戴構成。確かに何かに感動して涙を流すという事はとても美しい行為であり、心のリラックスにも欠かせない。でもどうだろう、なんだか今のテレビでは本物の感動がないような気がする。さっきも書いたが制作側が意図した、ここで泣け!という様な言うなれば感動スイッチにただ素直に反応して泣いてるようではいけないのだ。それではただの餌を前にしてよだれを垂らす犬となんら変わりない。

 

じゃあどんなテレビだったら僕は見たいのか。僕はライブ感を押し出した物がもっと増えてもいいと思う。何が起きるかわからないような。確かにテレビ番組である以上予定調和に越した事は無いんだけれどもそれを視聴者に感じさせない構成。いいじゃないか、肩肘張ったような番組ばかりでなくとも。愛は地球を救うかもしれないけれどもある程度の緩さ、いや、あえて「ゆるさ」と書こう。それだってきっと地球を救うよ。空港で来日した外国人と触れ合うのもいい、原付で日本横断するのだっていい。もっとゆるくたっていいんじゃないかなテレビって。

 

 

時間の重さ。

 

 

いよいよ夏が終わりだ。日が沈んでから外を出歩くと涼しくて心地よい風が身体を撫でていく。詩人のような書き出しをしてしまったが別に感傷的になってるわけではない。ああ、でもいつの間にかあっという間に夏が終わり1年の内半分が終わってしまった。なんてことだ。まだ彼女と映画館にも行っていないし彼女と海にも行っていないし彼女と肝試しもしていない。と、ここまで書いたところでようやく自分に彼女がいないことに気がついた。外気の温度差についうっかりしてしまった。

 

堀北真希も結婚しちゃったし。大ファンとしては嬉しくもあり寂しくもある。しかも噂では交際0日、モーションかけてから2ヶ月でのゴールインだというではないか。すごいよ山本さん、憧れるよ。師匠と呼ばせてください。俺なんて2ヶ月あってもなにもできやしない。強いて言えばなんだろうか、、やばいぞなんにもないぞ。

 

よくよく考えてみると今までの僕は無駄に日々を過ごしてしまっていたのかもしれない。1日1日積み重ねられたはずの経験値を積み忘れたことがあったかもしれない。まさか結婚ニュースを聞いて自分の人生について考えさせられるとは。さすがです、山本さん。

 

ああ、野ブタパワー注入されたいしアロエヨーグルトを持って踊る堀北真希を生で見たかった。そんな思いに浸る夏の終わりの午前3時。秋が近い。

 

もうしてるよ時間旅行

 

「ああ。あの頃に戻れたらな」なんて思い返すことはきっと誰にでもあると思う。僕もそうだ。というかかなりの頻度である。あのとき楽しかったから戻りたいなっていうのもあれば、あの時のアレをやり直したいから戻りたいってこともある。でも僕は時速140kmで走ってもタイムサーキットには突入しないし机の引き出しが時空間に繋がってる訳でもない。ただ只管にあの懐かしき日々に想いを走らせるだけなのだ。

 

高校生のころから今にかけて、毎回新しいのが出るたびに欠かさず買っている本がある。空想科学読本と科学雑誌のnewtonだ。この2つの本は素晴らしい。前者はアニメや漫画などの空想世界の出来事であったり必殺技について科学を用いて考察するという本なのだが、もう、なんというか出来ることならば筆者様の脳の中身をまるっと全部お見通しさせていただきたくなる。あの想像力はどこから来るんだろうか。後者は打って変わって真面目な本だ。いや、前者も真面目な本なのだが真面目のベクトルが違うというか。気になってしまった方はぜひ最寄りの書店へ走ろう。そう、newtonは実際の今の科学世界がどのようなものかを教えてくれる雑誌だ。中でも僕の一番のお気に入りはタイムマシンは可能か、時空間移動は可能かといった時間と空間の特集が掲載されていた巻だ。

 

あれは読んだ時僕の頭に衝撃が走った。あ、もちろんとてもわかりやすく噛み砕いて説明されているから僕でも理解できるのだ。なんだろう、読んでいると僕の頭に新しい宇宙ができたようなデカい衝撃。こんな知らない世界があったのか!とあの時の僕はむしゃぶりつくように読んでいたと思う。

 

それによるとどうやら理論的には時間移動は可能らしい。超ひも理論ワームホールといったSF映画でしか聞いたことのないような単語をなんとか噛み砕いて理解した結果だ。ただ今の科学技術では到底不可能だが理論の入り口になるような糸口は見つかっていると。

 

さあ、これで希望は繋がった。いつか僕の子孫がもしかしたら僕の失敗をやり直しにこの時代に来てくれるかもしれない。パラドックスを乗り越えて僕の過去も変わるかもしれない。ああ、でもやっぱりそれは僕は望まない。過去の事があって今の僕がいる。もし今までどこか1mmでも変わってしまっていたらそれはもうきっと僕ではない。

 

いろいろ考えた結果、やっぱり僕には朝起きたら8秒前の日光を全身に浴びて、夜には遥か何億年も前の輝きを放つ星々を見るっていうプチタイムトラベルが身の丈にあってるのかもしれないな。そうしながら全力で「今」を生きていこう。