ダメ社会人のダメじゃないかもしれない毎日

日々の楽しいことだったりいろんなことを記事にするよ!!

育て屋おじさんは偉大。

超お久しぶりです。かなり更新の期間が空いてしまいました、ナンテコッタパンナコッタ。最近あんまりまとまった時間が取れずに更新ができませんでした。‥いや、実はまとまった時間は取れていました。でもそのリソースをまったく違うものに費やしていました。


海外ドラマにどっぷりハマっていたのです。『ホワイトカラー』です。いやはや友達の紹介で見始めてみたら面白いのなんの。しかもこの作品、Amazonビデオというサービスで公開されており、更にシーズン4まではアマゾンプライム会員は実質無料で見れるっていうんですからこれを見ない手はありません。ちなみに僕はAmazon studentの僕はプライム会員扱いなのでもう踊りだす勢いで嬉しいです。マットボマーさん超イケメン。惚れる。

ところでなぜ海外ドラマ、主にアメリカドラマはここまで世界中で流行るのかとふと疑問に思いました。

まず考えられるのはやはりアメリカ領土というだだっ広いロケーションで撮影が可能な事によって壮大なスケールを演出できるという事でしょうか。広いからこそ様々な環境があり、あらゆるシーンを撮る事が出来るのです。

それに、そもそもの予算が日本のドラマとは桁違いです。なぜそんなことが可能なのでしょうか?それは、日本とアメリカのドラマの制作の仕方が根本的に違うところに理由があります。アメリカでは制作と放送が完全に分離しており、製作側は視聴率の心配をしなくていいため全力、全予算を注いで自分達が面白いと思うものを作ることができるのです。その結果、まるで映画のようなクオリティを1話1話に持たせることが出来るのです。

ここからは僕の想像ですが、背景には日本とアメリカの『成長』に対する見方の違いも関わってくると思います。日本では、ドラマの打ち切りという言葉をよく聞くように、一度低視聴率を出したらそこでおしまい、あまり期待はしないよという文化があります。その点アメリカはどうでしょう。オーケー、オーケー、失敗は当たり前、放送した側は見抜けなかった事を反省、製作側は面白いものを作れなかった事を反省、次に活かそう。そんで次に結果を出せばいいよ。という違いがあります。そう、このネクストバッターズサークルに立つことを許可するかどうか。ここが最も大きな違いだと思います。

オリンピックを控え、僕たち大学生は経済が活発化し、少しでも就職が有利になることを望んでいます。そのためにはまず、長いスパンで何かを育てようという概念が必要なのではないでしょうか。

そんな事を考えながら僕は地道にコイキングを育てていきます。ああ、赤版懐かしい。ピカチュウ版がトレーナー感としては至高だよね。


時速88マイルを超えて、今。


こんばんは、私です。
居酒屋さんでのんびりお酒を飲みながら書いています。

僕のFacebookでも書きましたが、昨日はあの名作「Back To The Future 2」で主人公マーティが目指した未来でした。未だにポケットを裏返して出すのが流行ったり、車が空を飛んだりはしませんが、確かに僕たちは製作当時の人々が夢見ていた未来に到達してしまいました。


それでも我々人類のすごいところはあの映画に出てきた当時は空想に過ぎなかった幾つかの技術を現実にしてしまいました。TVCMで何度か目にした事もあるでしょう、ホバーボード。それにナイキからあの、自動で紐が縛られ自分の足にフィットするスニーカーの発売も発表されました。

この事からもわかるように、この「Back To The
Future」シリーズは人々にたくさんの夢を与えました。そしてそれを原動力に出来たからこそあのテクノロジーを実現できたのでしょう。

実は僕もあの映画に大きな影響を受けた人間の1人です。僕のSF好きはこの映画に端を発しています。それにこの映画の「未来は自分の手で変えられる」という大きなテーマは僕にチャレンジ精神というものを教えてくれました。マーティが自分の存在を確立させるために、親友ドクを救う為に過酷な冒険にチャレンジしたのと同じように、僕は自分を救う為に過酷な人生の荒波にダイブしないといけません。そこにはデロリアンも無ければ頼れる博士もいません。でも僕は走り抜けないといけないのです。きっと走り抜けたその先には彼が守りたかった未来と同じような、輝く未来が待ってるはずですから。

この映画のキーになるのはデロリアンというタイムマシンです。時速88マイルを超えるとタイムサーキットと呼ばれるタイムマシンが走る空間に繋がり任意の時空に飛べるという代物。でも実は僕たちはデロリアンが無くてもタイムスリップをしているということご存知でしょうか。

僕たちが日中浴びている日光は約8秒前に太陽から出た光だし、僕たちが夜空を見上げて思いを馳せる星空の瞬きたちは実は何百年も前の光だったりします。

ロマンティックですね。ロマンって実は僕達のすぐ隣に潜んでいたりするかもしれません。だからこそロマンはロマンたりえるのかもしれません。


今の僕、プライスレス。


こんばんは、いや、超おはようございます。最近1人居酒屋がやめられない僕です。まだまだ21の若輩者の僕ですがどうにもこうにもビールの虜にされてしまいました。

そんなこんなな僕だけれども只今非常に困っております。何をしたらいいのかわからないのです。勉強は当たり前として、その他。プラスアルファの魅力になるようなことを身につける術が何も見当たらないのです。楽器も弾けなければ歌も上手くない、絵が描けるわけでもなければ運動ができるわけでもない。まったく武器にできるような事が今の僕には何もないのです。このままではいつか訪れる終末戦争、いや就活戦争で生き残れません。竹槍で戦うようになってしまいます。それに魅力が必要なのは就活に対してだけではなく今後の人生全般においても重要なポイントです。

まぁそんなもん大学4年間のうちになんか見つかるだろと舐めてかかっていたらそのキャンパスライフも半分を過ぎました。なんてこった。僕のキャンパスは真っ白のままです。

自分の魅力はなんなのだろうかと頭を抱えてしまいます。ダンテも今の僕をモデルにすればちょっとお肉のついた現代版考える人を彫れます。

ああ困った。

世界系男子になりたい。

 

海外に憧れています。いや、行ったことはあるのですが、だからこそ憧れが余計に強くなりました。こういう事を言うと意識が高いとか揶揄される世の中になってしまったのが悲しいです。低いより高い方がいいじゃないですか意識なんて。

 

とにもかくにも。海外が好きです。いや、旅行が好きなのかもしれません僕の場合は。出かけるのが好きでその究極が海外なのです。でも実は偉そうに言っておりますが別に海外経験が豊富なわけではございません。しかし少ないからこそ海外での刺激は僕にとって実に衝撃的で深く心に刻み込まれるものになりました。

 

まず海外旅行の何がいいってみなさん、国内の空港から旅は始まっているのですよもちろん。テンションが上がらないわけがない。あの空港の雰囲気。いけません、思い出して興奮して文章がスタッカート気味になってしまいました。何がいいって非日常感がたまらないんです。身体検査、持ち物検査なんでもこいです。ああいう普段味わえないものをどんな小さいものでも楽しむ。それが醍醐味です。

 

観光旅行程度では言葉の壁なんてものはないです。身振り手振りでなんだって通じます。それに2日も滞在してれば勝手に耳が慣れてくれて何を言っているのかわかるようになります。人間なんでも慣れです。そうすれば海外では必要不可欠な自己主張だってなんの苦もなくできるようになりますから。

 

ただし!言葉以上に大きな壁が実はあるんです。食事です。ごはんです。飯です。大事な事なのでなんども言います。ごはんです。これは非常に強敵です。油断するとすぐにおみまいされてしまいます。アメリカに行った時は2日目の昼にはもう私はやられていました。まああれは観光ではなかったので自分で食べるものを選択する機会があまりなかったというのも要因の1つですが。美味しくないわけではないのです。むしろ美味しいのです。肉も魚も野菜もフルーツも美味しいです。ただし量が。物量がとんでもないのです。あれは非常に応えましたね、いくら高校生の時だったからといって今考えてみてもものすごい量でした。ですがそれも今となっては思い出です。食文化の違いを身をもって体験できたのですから、なんたる貴重な経験。素晴らしい。

 

今はもう昔ほど世界は広くありません。行きたい時に行きたい国に行ける時代になりました。この小さくなった世界に飛び出してみてより小さい自分自身の存在を見つめ直してみるのはより大きくなるためのステップとして必要なものではないでしょうか。

むかしむかしある商人が…

 

矛盾、もしくは矛盾した言葉って人に受けやすい。なんでだろう。あの大人気映画『バックトゥザフューチャー』は未来に戻るだし、『永遠も半ばを過ぎて』は言わずもながだし。これは邦題を付ける時のミスだろうけども『ゼロ・グラビティ』もそう。あれは絶対原題のまま『Gravity』でよかった。無重力の宇宙で色々大変なことがあってやっとこさ辿り着いた地球で地面を踏みしめて重力の大切さを噛み締めるって話だったのに邦題が『ゼロ・グラビティ』ではなんだかなという感じです。

 

本題に戻りましょう。なんで「矛盾」が流行るのか。僕は別にそれが嫌いだとかどうとか言うつもりはないです。言葉遊びってとても素敵なものだと思いますし。単純にそういう言葉って興味を引きますし。「未来に戻る?なんじゃそりゃ」の様な。完全に人の足を止める広告的な役割はもう十二分に果たしてくれると思います。

 

そんな矛盾がありふれたこの世界で唯一僕たちを裏切らない、正直な物。それは何か。数字?金?違います、夢です。夢は僕たちを裏切りません。いつも裏切るのは僕たち自分自身ですから。あの時キャンパスに描いた未来と違う色の絵の具がついた筆を持っていたらそれは裏切られたのではなく裏切ってしまったのです。描いた自分自身を。

 

こんなクサいことは言いません、別にカップラーメン食べようと思って湯を沸かしてる間にトーストを焼いて食べて満足してラーメンのことなんてすっかり忘れてしまったことなんて関係ないです。俺大丈夫かな。

 

こんなブログでも気に入っていただけたら、Facebookでちょっと重たい記事でもなぜか付けられることの多いそれこそ矛盾の現代的象徴のような「いいね!」ボタンをポチッとしていただけると幸いでございます。これからも粛々と淡々と日記のような感じで更新を続けていきたいと思っておりますのでご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。

 

 

あの日見た実写化の作品を僕たちはまだ受け入れられない

 

こんばんは、非常に久しぶりな更新な気がします。なんだかのんびり過ごしてしまっていて書く気が起きませんでした。

 

先日とうとう実写版の「あの花」が放送されてしまった。僕も恐る恐る見ましたが…、まあこれはこれでというか、BGMの凄さを思い知ったというか、アニメを見た記憶があるからアニメの絵が重なって感動するというか、そもそもアニメで充分だったというか。

 

それにしても最近妙に実写化作品が多い気がします。デスノートど根性ガエルに。少女漫画でいえば人気な漫画は大抵が映画かドラマになっている気がします。正直に言うと、少女漫画の実写化はいいんです。あと料理漫画とか。幼馴染の幽霊が出てきたり、名前を書くだけで人を殺せるノートが出てきたりといった現実離れした事象が起きる漫画以外であれば実写化は大歓迎です。『孤独のグルメ』のドラマ版好きですし僕。

 

一番大事なところはそこであって3次元で実現できそうもないからこそ2次元で楽しもうとアニメや漫画にしているのにそれが人気が出たからと言ってよし、実写化だ!は本末転倒というか、そもそも負け戦みたいなもので。

 

それでも中には成功というか、世間的に叩かれなかった物もあり、映画版デスノートに、海外のものですがアベンジャーズシリーズとか。でもそれは稀なヒット、というか実写化ドラマとは違って莫大な予算と時間と人材をかけられるからであって、普遍的なものではないため実写化作品というのはアベレージヒッターではないと思うのです。

 

テレビ離れが叫ばれる昨今、確かにもともと多くの固定ファンがいる原作をドラマにしちゃえば視聴率ゲット間違いなしと考えるのは納得のいく道理ですがそれだけに頼ってしまっていてはヒットどころか空振り三振、バッターきりきり舞いな気がします。

なぜ携帯小説が流行ったのかを真面目に考えてみる。

 

 

おはようございます。最近不眠症気味の私です。ですがいたって健康です。

 

突然ですがこのブログを読んでくださっている方の中に携帯小説を読んだことがある人はいるでしょうか。ブーム全盛期が確か6,7年前です。懐かしいですね。僕はまだ中学生でした。なんで突然こんな話を始めたかというとこの間ブック◯フで恋◯が叩き売られていたのを見たからです。◯空は実写映画化までされた携帯小説を代表する作品ですからきっと聞いたことある人がほとんどだと思います。なのにあの作品が今となってはかなりの安値。ブームって怖いですね。

 

そこで私ちょっとラブスカイを手に取って買ってみました。レジに持っていくのが非常に恥ずかしかったです。とんでもない乗り遅れ感を味わうと共に、お前が買うの?みたいな店員さんの目線がビシバシ刺さりました。でもその店員さんが美人だったのでなんとか持ちこたえました。

 

家に帰って読んでみるとなんともまあ。なんともまあです。なんと言ったらいいかわかりません。そこでタイトルな訳です。ここはひとつ、なぜこれが、いや、そもそもなぜ携帯小説があんなに世を魅了したのか考えてみようではないか、と。

 

携帯小説とはその名の通り、携帯を使ってサイト上に書き込まれていった物です。そしてそれを書いていた作者は(本物かもしれませんが)自分は中高生であり、これはリアルタイムもしくは最近の話とした上で連載をするのが主流でした。ではなぜ多くの作者がこの手段を取ったのでしょうか。それを推測するのは簡単です。携帯小説を売る側が狙っていた客層はまさに中高生だったからです。それはなぜか。当時爆発的に中高生の間で携帯が流行り始め、1人1台持つのが普通になり始めたタイミングだったのです。ちなみに僕は当時持ってませんでした。だからあくまでも推測ですが一番最初に携帯小説を書き始めたのは恐らく本物の中高生ではないと僕は思います。あんなでっかい市場をプロが見逃すはずはないですから。

 

そして内容。もうはっきりと言ってしまいますがどれを読んでもほとんど内容は同じです。流行った物の焼き直しばかりです。大抵が性行為、ドラッグ、不治の病、レイプなどの犯罪、そして妊娠。ほぼ全ての作品のキーワードはこれです。あと浮気。いやこれは携帯小説的には複雑な恋愛事情と書けばいいのでしょうか。女子にはイロイロあるんだよ☆みたいな。ではなぜこの昨今騒がれているパクリとも呼べる物が当時は受けていたのか。ちょっと考えてみました。するとこれに似たある国民的ドラマを思い出したんです。そう、水戸黄門です。あのドラマ、ご老公が印籠を出す時刻が毎回同じだって事ご存知でしょうか。そう、携帯小説の内容が似ているのも水戸黄門のこれも「不文律」です。「テンプレート」なのです。「あ、これ知ってる〜、前読んだのと似てる〜」という体験が読者に安心感を与えそれが満足感に変わり最終的に購買意欲へと姿を変えるのです。そして携帯小説では印籠ではなく、中高生の年代にとって非常に身の回りにありつつ最も遠い物たちな訳です。不治の病による悲恋なんてのはそれこそ遥か昔から恋愛ものにはうってつけですからね。まさに憧れの対象です。

 

でもその中高生の憧れを全て主人公、もしくはその周りのキャラクターが実現してくれるという事が携帯小説最大の魅力です。キャラクターに自分を重ね合わせて、一喜一憂する。まさにエンターテイメントの楽しみ方の王道ですね。また、携帯小説はある部分では非常に現実とのリンク感が強いのです。もちろん、ドラッグや犯罪などが身の回りにある学生なんてほぼいないと思いますが、恋愛は違います。あ、今の私の恋愛事情あのキャラに似てる、、!なんて事が起こり得ます。するとこれまた加速度的にその物語にのめり込んでいきます。

 

そして大抵の物語、キーを握るのは携帯メールです。結構大事な話をメールで済ませる登場人物が非常に多いです。これは当時のメール文化を表しているのでしょうか。そしてLINEが流行ってしまった今では存在が薄くなってしまった「思い」がそこには確かにあるんです。「読んでくれたかな」という登場人物の思いです。既読マークがつかないからこそ不安になってしまう。不安だからちょっと危険な事もしてしまう。メールのやり取りのちょっとしたタイムラグが実はよく考えてみると登場人物の心理描写に役立てられるという見方もできます。

 

調べてみると意外や意外。携帯小説、穿った見方をすると奥が深そうです。またブックオフにでも行こうかな。